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3) 集中力を伸ばすには:

 「思考能力と同様に集中力は伸ばせるか」という質問もよく受ける質問のひとつです。集中力も思考能力と同じで伸びることは確かです。

・発達心理学者は次のように指摘しています。「集中力のあるなしは、幼児期の遊び時間の多少に比例する。幼児期の子供が、遊びに集中する時間が多ければ多いほど、遊びを楽しくするために、幼児は様々な遊びを考え出す機会が多くなり、これによって集中力と思考能力が養われる。そればかりでなく周りの子供たちと調和して楽しく遊ぶための術を考え出さなければならない為に、思考力のみならず社会性が身に付く。一方幼児期から多くの習い事をさせられて十分な遊び時間がなかった子供は、一方的に教え込まれることに慣れ、受身の姿勢が身についてしまい、自主的に物事を考えたり、行ったりする習慣が身に付かないばかりでなく、社会性に欠けるために、その後の能力の伸びが阻害される」と。 

 

・われわれの調査でも、集中力の高い生徒は、幼稚園から中学のころまでスポーツと読書に親しんできた子に多く見受けられる事から、専門家が指摘することは正しいと思われます。幼児期からスポーツをやることによって、体力がつくのみならず、「集中する力」とあわせて、上手になるために練習の仕方をいろいろ考えさせることが「思考力」を養う訓練になると思われます。ただし中学以後はスポーツをやるにしても、プロのスポーツ選手を目指すのでない限り、勉強と両立するための勉強計画を、きちんと立てて、スポーツと勉強を両立させる必要があることは言うまでもありません。中学や高校に入学後に、毎日の勉強習慣が身についていない生徒が、学校で部活に興じてしまい、勉強習慣が身に付かないまま、能力を伸ばさずに終わってしまうケースが多く見られます。継続的な勉強習慣が身に付いていない生徒が部活に入った場合、よほど気を引き締めて勉強に取り組まないと、能力を伸ばさないままの状態に留まり、その結果受験に失敗しますので十分に注意してもらいたいと思います。

11) 独創力を育てよう:

将来子供たちがどんな仕事につくにせよ、そこにおいて、それまで培った思考力をフルに活用し、どんなに細やかであれ、仕事の上で独創的なアイディア生み出して行ける能力を培うことが、自らのIdentity(自らの存在意義)を自覚しつつ、充実した人生を送る上で大切なことだと思います。

 

・独創力を持つという事は一人、天才だけに与えられた特権ではなく、我々凡人も、若い時代に思考訓練を継続することによって、ささやかではありますが、この能力を身につけることが出来ると考えております。筆者も研究者の端くれとして研究に従事した経験から、このことは確かなことだと思います。

 

・若い人達一人一人の将来を考えるとき、彼らが持って生まれた思考力を鍛える為の理性的な訓練方法と、その訓練を継続する忍耐力を持つことの大切さとを、認識させることこそが、将来に備えて最も大切な教育だと考えます。

 

・テストでの順位や偏差値による能力の評価はすべて相対的で便宜上の評価であり、本人その人が持つ能力を正しく評価する方法ではありません。これが行き過ぎると(現在はどうしようもないほどひどい状態がこの国の教育に蔓延しております)個人の持つ能力を鍛えることは無視され、多くの若者に劣等感を、教師には倦怠感を生み出し、教育が名ばかりのものとなってしまい、教育が形骸化の一途をたどることになります。(教師は手抜きをしても暮らしてゆけますが、生徒の将来は暗いものになってしまいます) 多くの専門家も指摘する通り、テストに出来る為には、必ずしも高い思考能力が必要な訳ではありません。若者の勉強に対する意欲の喪失も、受験勉強のための要領の良さをだけを求める偏った教育の形態にも問題があるのかもしれません。

 

・思考能力の高い生徒が、勉強に対する意欲をなくしてしまう例は少なくありません。思考能力の高い生徒の勉強に対する潜在的な欲求は、「分かる為に勉強をしたい」、と言うものです。しかし受験に通る為には、分かる必要はなく、要領よく問題が解ければよいのです。この塾の再三にわたる調査でも、「分かる為の勉強」と「出来る為の勉強」の違いに戸惑うのは、思考能力の高い生徒に圧倒的に多いのです。この塾では、思考能力が高いにもかかわらず、勉強嫌いになる生徒の手助けをし、本来の能力を発揮できるように、手助けすることを目標の一つとしてきましたが、学校の教育環境や、家庭の教育環境など、色々な要因が有って、必ずしもうまく行かない場合も少なくありません。

 

・学校教育が肌に合図、能力を伸ばせずにいた人が、社会に出て仕事についた後、目のさめるような素晴らしい仕事をして、社会に貢献する例が多々あります。これをみても個人個人の持つ能力を正しく評価し、伸ばすことが、如何に大切かがわかります。

 

・生徒に順位を付ける事が主体で、受験の合格実績を最終目標とする、あまりにも安易な現在の教育は、高校でも、その延長としての最高学府である大学までもが、教師と学生の双方に倦怠感を生み出しているのが現状です。特に、若い瑞々しさあふれる能力を、正しく伸ばす為に最も大切な期間である中学校、高校、大学において、しっかりした思考能力を身につける為の訓練がなされていないのは誠に残念な気がします。

 

将来、「充実した人生を送るために、あらゆる人々にとって、生きてゆく上で必要な、確かな思考力を醸造するための教育」が、脇に追いやられているように思えてならないのですが、これは筆者一人の思い過ごしなのでしょうか。    

                     塾WHY代表  水間  記す

以下の文は、東京で25年、函館で15年間に渡る活動を含めて講演会でお話したこと、父兄との懇談でお話したこと、あるいは生徒との話し合いで述べたことを、断片的に書綴ったものです。塾WHYの教育に対する考え方の一部としてお読み頂き、日常、お子さんのご訓育に役立て頂ければ幸いです。話が重複している所が有りますがご容赦下さい。

WHYの窓から

1) 当塾の指導理念:

この塾ではいわゆる入試に合格する為の要領を教えるのではなく、「正しい勉強の仕方」と、「生徒に先天的に備わっている考える力を鍛えてこれを伸ばす為の勉強方法」を指導の中心におき、「その為には何が必要で、どんな訓練をすればよいのか」という根本的な問題を生徒諸君に明らかし、これを理解させ深い思考力を身に付けさせる指導を行っております。これが達成出来れば受験に成功する事はそれほど困難な事ではありません。この事は、この塾の30年にわたる合格の実績が物語っています。

1)当塾の指導理念
2)思考力を高めるには
3)集中力を伸ばすには
5)能力を伸ばすための3つのポイント
4)IQについて

2) 思考力を高めるには:

「思考する力は伸びるか」という質問をしばしば受けるのですが、正しく訓練すれば伸びることは確かだといえます。もちろん生徒によって、生まれ持った思考能力に差があることも事実です。この塾の調査でも、中学の段階で高い思考能力を示している生徒は15人に一人の割でおります。多くの発達心理学の専門家によれば、不幸にして知的な障害を負って生まれた場合は別として、育った幼児期の生活環境と就学後知的な訓練の仕方によって思考能力の差はほぼ解消できると主張しています。この塾の調査でも、思考力を伸ばす訓練を継続する習慣を身につけた生徒は、高校の3年間で確実に思考能力を伸ばし、思考能力で上位の子供に追いつき、これを追い抜く例が少なくありません。

 

・この塾の思考能力を高める訓練は、基礎となる知識を身につけさせうえで、「何故(WHY)そうなるのか、だからこうなるのだ」という自問自答を3段論法によって幾度となく繰り返す訓練を継続することから始まります。大雑把に言えば、3段論法とは次のよう議論の仕方であります。「AからBが結論でき」かつ「BからCが結論できる」 ならば 「AからCが結論できる」というものです。3段論法などと言うとつい数学や物理の話だと勘違いしている人も多いようですがそうではありません。例えば、「万里の長城の建設は、何故ローマ帝国の崩壊を招いたか」と言うような問題に答えるのにも、三段論法の力を借りなければ納得の行く説明が出来ません。

 

・16世紀のフランスの哲学者であり、数学者でもあったルネ・デカルトは「3段論法」が妥当な推論の仕方であるかどうかを検証するために、ヨーロッパ中を旅したと伝えられています。当時ヨーロッパで知識人といわれる人々はもちろんのこと、市井の人々に対しても、この3段論法の妥当性に対する意見を聞くために各国を旅して回りました。その結果、たとえ国や地域が違っていても、この論法に異議を挟む人は一人もいない事実に注目しました。そこで彼は「3段論法は、老若男女を問わず、人間という生命体に先天的に備わった悟性である」と結論しました。そして彼は「人と人とが理性的に意思の疎通を図るための基礎として、3段論法は欠く事ができない手段である」と述べています。注目すべき点はデカルトが、「万人が3段論法を基礎とし、それを正しく使う訓練を十分に行うことによって、論理的に思考する力を確実に高いレベルに進歩させることができる」と述べている事です。デカルトのこの主張は、彼の著書「方法序説」の中で詳細に説明されております。彼は自からこの方法を用いて、「自らの存在理由は何か?」と自問し考え抜いた結果、かの有名な命題「我思う、ゆえに我あり」に到達したとも述べております。

 

・この塾は、デカルトの考えを基に、日々の学習においても、思考力を磨くために彼の考え方が適用できるはずだと考え、その為に、どんな教材を作り、どんな授業をすればよいのかを検討し、これを基に指導計画を作り、実践しています。この塾の指導方法は大雑把に言えば、「基礎を限りなく正確に身に付け、それを使いこなす訓練をすることによって、高い思考能力を身に付けさせる」ものです。この訓練を継続することが出来れば、確実に、深く考える力が身に付き、難しいとされる数学や物理だけでなく、英語その他の科目においても高いレベルに達することができるのです。

 

・数学を学ぶことの重要性

文系、理系の如何を問わず、また受験に必要であるかどうかにかかわらず、思考力を高める訓練材料として、数学を学ぶことは欠く事ができません。

数学以外に、微にいり細に渡って筋道を立て、物事を考え抜く訓練が出来る科目は他にないからです。

アメリカの16代大統領であるアブラハム・リンカーンは、勉強とは程遠い家庭環境に育ち、法律家を目指した独学の人でありましたが、勉強をするにあたって、最初に数学をしっかり学んだことが、その後の法律の勉強と、政治家としての生き方に極めて役立ったと述べています。アメリカやヨーロッパの政治家や高級官僚の中に理系出身の人が多いのは、このことと無縁ではないのかもしれません。

 

・若者達が世の中に出ると、好むと好まざるとにかかわらず、生きてく為の重要な手段として、筋道を立てて物事を考え抜く能力が必要となります。長い人生において、より良い生活を維持する為に、数多くの問題に対処していかなくてはなりません。人生の至る所で出会う問題に適切に対処して行く為には、この論理的に思考する能力を出来るだけ若い年代に、身につけておくことが不可欠です。世の中で出会う問題は、人間のさまざまな欲望や、損得勘定などが絡んでいて、論理的な思考だけで事足りるわけではありませんが、逆にだからこそ若い時代に、感情に支配されない論理的な思考習慣を身につけておくことが必要になるのです。

4) IQについて:

IQについて一言注意しておきます。そもそもIQテストなるものは、人間のどんな能力を測るものかをはっきり認識しておく必要があります。そうでなければ、このテストの結果によって、若者に無用な劣等感と優越感を植え付けることになるからです。IQテストは、「決められた時間内に、与えられた物事を早く理解し、正確に処理できる能力」を調べることが狙いのテストです。言い換えれば「コンピュターにどれだけ近い能力を持っているかどうか」を判定するテストだといっても過言ではないでしょう。従ってこのテストでは「思考の深さ」や「独創性」などの能力は測ることは出来ません。

 

・IQの点数が高ければ、テストで高得点をとることが期待できるのですが、物事を深く思考できたり、習ったこと以外の事を考え出せる能力持っている証拠にはなり得ません。このことは特に注意して頂きたいと思います。深い思考能力を養うことできれば、それを土台として独創力を養うことが可能になります。大天才と言われるニュートンやアインシュタインは一つの事に疑問を持つと、それを解決するまでとことん考え抜く習慣があったために、子供の頃には彼らでさえ教え込まれることが良く理解できない遅進児とみなされていたと伝えられています。

 

・発達心理学の専門家達は、能力が高いということは、IQ的能力のほかに、深い思考能力と独創力の3つを兼ね備えていることだと述べております。また彼らは、理由は明らかではないが、これら3つの能力に恵まれて、生まれてくる人は統計的に10万人に一人くらいの割合で存在し、さらにこれらの能力を、最高度に持って生まれた天才と呼ばれる人達は、統計的に見て、地球上には毎年、数百人単位で出生しているらしいと指摘しています。

 

・一方他の多くの人々は、適切な訓練と努力を継続することによって、天才になることは有り得ないにしても、(各人にあった)正しい訓練を継続することによって、思考する力はかなりの程度(天才たちがやる仕事を理解できる程度)まで伸びる可能性を持っている、とも述べています。

 

・受験勉強の弊害の一つに、いろいろな事柄に対して、WHYつまり、「なぜか」と言う疑問を持つ態度が失われることがあります。疑問のある問題に対して深く思考する習慣が身につかないまま、試験で好成績をおさめたり、受験で合格すれば、自分は高い能力を持っていると勘違いしてしまう若者も大勢おります。問題の解き方だけを覚えるマニュアル嗜好的な勉強からは、高い思考力は養われません。マニュアルの読み方、使い方に長けていることは、悪いことではないのですが、マニュアルがない時にはどうすることも出来ずに、手を拱くことになってしまいます。何か問題が起こった時に、問題点を洗い出し「なぜそのような問題が起こるのか」、「その解決策は何なのか」を考え抜く思考力が必要になりますが、マニュアル志向の受動的な訓練だけでは、高い思考力を得ることは難しいと思われます。またこのような勉強方法からは、教えられたことをだけは無難にこなす力は確かにつくとは思いますが、自ら問題点を捕らえ、解決策を見つけてゆく力は養われないままになる可能性が高いのです。

・大変興味深いことに、中学生、高校生の中には、思考能力が高いにもかかわらず、IQの点がそれほど良くなかったり、学校での成績が芳しくない生徒が少なくありません。その理由は、考える勉強を望んでいるにもかかわらず、テストに出来る為のHOW TOに中心をおいた訓練を強要される為に、彼らにとっては学校の授業は甚だつまらなく思えるのです。その結果、勉強そのものに興味を失ってしまい、勉強をしなくなってしまう。その為、高い思考能力があるにもかかわらず、悪い成績に甘んじなければなりません。このような子供たちは学校から劣等性のレッテルを貼られ、暗い日常生活を送らなければならない状態に追い込まれて行きます。また父兄にとって見れば、子供が勉強する気がなく、努力をしていないように見えるのですが、上に述べたように、この様な子供達が能力を伸ばせないでいるのは、それなりの確かな理由があるのです。

5) 能力を伸ばすための3っポイント:

この塾の指導は基礎を完成させ、これを使いこなす思考訓練をすることによって、生徒に高い思考能力を身に付けさせることを目的としています。現在まで受験の合格率を含めて、それなりの成果をおさめてきました。特にレベルの高い大学の入試問題では、微に入り細に渡って基礎を突く問題を出題してくるので、単に問題数を多くこなして解き方を覚えるだけの勉強だけでは、合格点を取ることは難しくなります。当たり前のことですが、結局、自分の持つ思考力を正しく鍛える勉強を毎日の勉強に取り入れ、継続して実行できさえすれば、思考力が進歩する為、高いレベルの大学にも割りと楽に合格できるのです。

 

・30年間にわたる塾生の調査から、自らの能力を飛躍的に伸ばす生徒の特徴は、の3点であると思われます。

1) 素直さ:教えられた事を速やかに受け入れる柔軟性

2) 自主性:あなた任せではなく、自ら進んで物事に取り組もうとする意欲

3) 粘り強さ:抵抗感のある事柄を我慢強く継続する力

 

・多くの教育心理学の専門家も指摘する通り、これらの力は、日常生活において養われるべきものだと思います。出来るだけ早い年代から、日常生活において、この3つの条件をしっかり身に付けさる訓練させないと、その後良い環境や優れた指導者に恵まれたとしても、持って生まれた能力を最大限に伸ばす訓練に適応できずに、年齢を重ねるごとに伸び悩んでしまう傾向が認められる様です。知的能力に限らず様々な能力を最大限に伸ばすためには、上にあげた3つの事柄をしっかりと身につけることが、何よりも大切なことだと思われます。

9) わが国の教育制度について:

日本の教育制度は、明治維新後に近代国家としての黎明期に作られたものであり、その真の目的は、先進国に侵略されることなく、先進国の物質文明に追いつくことでありました。その為に、政府は大学をつくり、目的にかなうエリートを育てることが急務でした。即ち手っ取り早くものの作り方を理解し、実現できる能力が必要だったのです。基本的な法則や原理を作り出したり、理解したりする能力を、時間をかけてじっくり育てることは殆ど注目されませんでした、いや注目する暇が無かった、と言った方が適切かも知れません。封建時代に比べれば、国民に広く教育が開かれたように見えるのですが、西洋先進国に物質面で追いつく為のマニュアル的教育を確立することが第1の目的でした。真の意味で国民一人一人の能力を高める教育は無視され、後回しにされたのです。当時の一般国民の教育の中心は「読み、書き、算盤」を身に付けさせることでした」当時、先進諸国が築き上げてきた精神面での成果を真面目に教育の中に取り入れることも、公的な教育で重視されませんでした。これによって国家の運営にとって有用な能力を持った者をエリートと見なす風潮が定着したといっても過言ではないと思います。それに伴う教育形態、すなわち試験が良くできる人間を教育することが中心の形態が定着した。この傾向は現在まで維持されています。

 

・わが国は、物質面では先進諸国に追いつき追い越す事は、それほど難しい事ではないことを世界に証明して見せましたが、国民の精神面で世界に誇れるような事はあまり示してないように思えるのです。その根底には先進諸国に比べて、教育に関する国民の意識の薄弱さがあると思われます。現在のいわゆる、社会でエリート官僚やエリート政治家が犯す悪業がマスコミによって広く報道され、日常茶飯事の事としてわれわれの耳に入ってきますが、この事態は上に述べたことと無関係ではないように思われます。

 

・試験に勝ち抜く才能は確かに才能の一つではありますが、人間に備わった多種多様な才能の一つに過ぎませんし、その才能だけを特に能力の評価の中心におくことは若い人々にとって、公正かつ賢明な評価だとは言えないと思います。国の運営や大企業の利益にとって有用な、試験によくできる能力だけが、高いレベルを目指す国家が必要とする能力だとは思えません。そもそも世界が認める高いレベルの国を目指す(この国はそれが十分に可能な国だと思うのですが)なら、国民全体が高い思考力を身に付け、物質面で豊かになるばかりでなく、精神面でも豊かにならなければならないはずです。

6)能力を伸ばすことを妨げる障害
7)学習環境について
8)大学受験について
9)わが国の教育制度について
10)西欧の先進諸国の教育とのちがい
11)独創力を育てよう

6)能力を伸ばすことを妨げる障害:

生徒不在になっている教育の形骸化は、テストが学校の年中行事と化してしまっている現在の状態からも理解できますが、これとは別に中学生や高校生に次の質問をしてみるとよりいっそう事態がはっきりみえて来ます。「学校に行きたいか? いや出来ればいきたくない。」、「学校は楽しいか? 楽しくない。」、「学校の授業を聞いて知的に進歩していると思うか? そうは思わない、知識は身に付いたと思うが。」「ではどうして学校に行くのか?」「友達と会うことが楽しいし、お喋りがしたいから」。こんな風に答える生徒達が大勢いるのです。

 

・世の中の進歩につれて、子供達を誘惑する数々の製品も飛躍的に増えています。テレビはもちろんのこと、各種ゲーム、携帯電話、パソコン、等々。現在の子供達は生まれた時から、この様なスイッチ一つで意のままに動いてくれるものが、自室にある環境におかれています。これらの物に子供達は誘惑され、抵抗感のある事に対して努力をしないよう仕向けられて行きます。スイッチやボタンを押すだけの作業で、「楽しさ」を手に入れることを覚えてしまった子供たちは、努力しなければ手に入らない事柄に対しては、嫌悪感むき出しで見向きもしなくなる。ゲーム漬けになっている子供などは、勉強には全く興味を示さなくなってしまう。この様な環境で生きてゆかなければならない子供たちを、すぐ手に入る誘惑からどのように守っていくか、またこの状態が避けられない環境であるのなら、この環境を子供達の健全な成長にとって、良い方向に利用して行くにはどうしていかなければならないか、社会全体が今すぐ真剣に取り組んで行くべき問題だと思います。

・上に述べた事態が、子供達の能力を伸ばすことの障害になり、教育の形骸化を促進させている一因になっていることは間違いない事だと思います。教育の形骸化は、ニート(学校へも行かず、仕事にも就かない若者達のこと)と呼ばれている若者達が年間数万人の単位で増えていることとも無関係ではないと思われます。出来るだけ早くこの状態を食い止める方策を見つけ出さなければ、次世代を担うまともな若者が存在しなくなってしまう危険性があります。この深刻な事態に対して、対処しなければならない問題は、若い人達が将来に向けて自分の能力を自ら主体的に開発し伸ばすことの重要性を、どのようにして彼らに認識させるか、そしてその為には、何が必要なのか、子供を持つ親ばかりではなく、学校も、さらには社会全体で取り組み、改善策を見つけ出すことが急務であると考えます。

日本の家庭では、子供が就学期を終えたとたんに教育に無関心になる親が殆どですが、西欧の先進諸国では、孫やひ孫の代の教育にまで社会全体が関心を寄せ、時代に合わせたより良い教育環境を子供たちに与えて行くための検討が家庭と地域でなされております。このような点は日本が先進諸国から真剣に学ばなければならないことだと思います。

7) 学習環境について:

中学、高校に所属している生徒達の殆どは、学校で年中行事化してしまっている中間試験験、期末試験あるいは模擬試験といった試験(その先には入学試験がある)に備える為に、一夜漬けの勉強しかせず、試験が終われば勉強しないのが当たり前と言う状態になっています。「勉強とは試験に備えてするものであり試験がなければ勉強はしない」と言う習慣が中学校までにしっかり身についてしまい、高校に入ってからもこの習慣から抜け出すことが出来ないままの生徒が大勢おります。一夜漬けの勉強を繰り返す為、学力の蓄積が出来ずに、知的な能力を伸ばす訓練が成されないまま伸び悩んでしまう生徒も少なくなくありません。

8) 大学受験について:

久しく言われているように受験が若者に悪影響を及ぼしていると言う事も事実であります。試験に備えるだけの勉強習慣が身に付くと、物事に対して、WHYつまり、「なぜか」と言う疑問を持つ態度が失われることです。やり方だけを覚えるマニュアル嗜好になってしまいます。この事が得意な子供は、要領よくマニュアルを覚えれば、高いレベルの大学でも合格できるのです。しかし分かる為の勉強によって自らの能力を伸ばしたいと真剣に考えている子供達にとっては、マニュアル思考の勉強は苦痛なものになります。「分かること」と「テストで出来ること」とは本質的に違うことなのです。

・大学受験を旗印にしている学校においても、テストのやり過ぎと宿題の出しすぎで、生徒はこれに備える為一夜漬けの勉強に終始するため、自主的に学習計画を立てて勉強する習慣がいつまで経っても身に付かない。高い思考能力を持ち、分かるまで勉強したいという生徒にとってこの様な環境は、耐えられないものになります。テスト中心の教育では思考能力が高い生徒でさえ、脱落してしまう危険性がいっぱいあるのです。思考を中心とする学習習慣を身につけさせるためには、テスト回数や宿題の量を増やして、生徒に勉強を強いるだけではだめで、より良い教材作りと、そのための適切な指導に基づく学習環境(毎日の授業を含む)を整える必要があると思います。

 

・テストでよい点を取っても優れた能力の持っていることの証拠にはなりません。高い能力持つという事は「出来る」の他に「なぜなのか、どうしてなのか?」と言う質問にも答えられる能力を併せ持っていることです。従って、受験一辺倒のテスト中心の教育では、思考力を伸ばすことは難しくなります。最近では、テストは出来ても「なぜ」に答えられない子供が沢山いる。子供達の知的能力の判定がテストの点数に偏りすぎると、出来るけどわからない子供が多く出てくる。出来るが分からない子供の伸びには限界があり、年齢を重ねるごとに能力の伸びが鈍くなってきます。

 

・上で見たように事態は根本的な解決策を見ないまま、緩慢ではありますが悪化の一途をたどっているように思われます。現在の社会の趨勢から、多く若者にとって受験を避けて通るわけには行かなくなっている事は、衆智の通りです。この事がまた学校での教育が、受験中心の方向へと進む傾向を生み出している事実は否めないと思います。生徒一人一人の能力を引き出し、これを鍛え育てる教育は、柔軟性のない学校の制度に雁字搦めになってしまっていて、学校と名のつく教育機関だけでは、最早、実現不可能な時にきているのです。 

「個々の生徒の能力を引き出し進歩させる教育」の核心部分を構築する為には、どんな形態であれ、現状をじっくり観察し、問題点を洗いだし、その改善の為には何が必要なのかを、単に学校に限らず、父兄もそして社会も、また国の教育行政も力をあわせて、検討し、より良い方策を打ち出していかなければ、現状を改善する事は難しいと思われます. ここで何よりも大切なことは、生徒達がどんな教育を望んでいるのかを、正確に把握することなのす。

・現在、文部科学省が出す改革と称する政策は、形式的な制度改革が中心となってしまい、生徒不在で、猫の目のようにめまぐるしく変わり、設定されたと思うと変えられ、また元に戻されたりしています。教科書の改定なども、追いつくのが大変なほどに頻繁に改定が行われています。これでは「何が、本当なのか分かって改定をやっているのか」疑問になります。一時叫ばれた「ゆとりの教育」なるものも、そもそも「ゆとり教育とはどんな教育なのか」という根本的な問題を明らかにすることなく、ただ時間数の過不足と教える知識の出し入れだけの量的な変更が成されただけで、なんら本質的な改革がないままの議論に終始していたように見えます。本来「ゆとりの教育」とは「生徒が納得の行くまでじっくり思考させる時間を十分に与える事と、そのために十分時間をかけて手助けする事」が中心にあるべきです。

10)西欧の先進諸国の教育とのちがい:

若い人達は、これからますます仕事においても、国境のない時代を生き抜いていかなければならなくなります。海外で仕事をする機会も格段に多くなって行くと思われます。

 

・この塾では高い能力を備えているにもかかわらず、日本の受験一辺倒の教育に、拒否反応を示している生徒に対して先進国の教育を受けることをお勧めしています。この塾の在席者で、過去十年間に、アメリカの評価の高い大学に進学した生徒は、函館教室では13名に上ります。

・わが国の大学の世界的な評価は良くなってきているとはいえ、まだまだ低いレベルにあると見なされています。ヨーロッパの大学は4、5百年の伝統を持つ大学が少なくないので、当然差があることは認めざるを得ないことではあります。先進国であるヨーロッパやアメリカの大学は、門戸は広いが、学生が大学の教育方針、即ち、「学生の能力を最大限に伸ばすこと」に対して負う自己責任の重さは日本と比べ物にならないほど大きい。

日本の大学のようにテストさえ出来れば入学でき、入りさえすれば簡単に卒業できることはありません。入学時にも、また入学後も学生の思考能力があらゆる角度からテストされるために、極めて厳しい勉強が要求されます。その厳しさは「若い能力を伸ばす為に、大学は万全の教育体制を敷いている」という大学側の自負からきています。従って自ら自分の能力を伸ばす為に真剣に努力をしない学生は厳しく切って捨てられる。

教育を受けた者が、自分は何が出来て、何が出来ないのか、はっきりと認識できるようになり、次の段階への目標が自ずから分かる仕組みになっているのです。

 

・この塾に在籍した生徒で、日本の高校でぱっとしなかった生徒が、アメリカやヨーロッパでの大学で教育を受け、トップレベルの成績を収めている例が多いことから、かの地の教育が若い能力を伸ばす為に確かなものであることは、事実として認めざるを得ません。彼らは異口同音に「厳しいけれど充実した学生生活が送れていることに幸せを感じている」と話し。「知らず知らずのうちに自らの能力が高まっていくのを実感出来る」と語っております。

一方日本の大学では大部分の学生は入学後殆どと言っていいほど勉強をしなくなる。その主要な原因は、「学生の能力を伸ばす責任と重要性に無関心である教師の態度」と、「勉強は試験があるときにだけするもの」という習慣が身に付いてしまった学生側の態度にあると思われます。こんな状況の中で、学生達は一年に2,3回、単位習得のためのテスト勉強することだけが仕事になってしまう。

 

・日本では最高学府に入学したら「遊べる、いや遊ぶ」という風潮が蔓延しています。親も大学に入ればそれで一安心で、入ってからの勉強など落第でもしない限り気にもしない。大学は「入学後は気合をいれて勉強しよう」などとは努々思わない学生達で満ち溢れている。学生達は、コンパだの、合コンだの、と言って、まるでそれが自分達の仕事であるが如く遊びまわっている。西欧の先進諸国からは、日本の大学(生)は程度が低いといわれるのも頷ける。このような有様では、将来この国はどうなってしまうのか、心配している人達も大勢いると思われます。

 

・大学の教師達は「自らの仕事は研究」と宣言し、学生の教育は二の次、三の次と言った人たちが多いのが現状です。彼ら曰く「大学は学生自らが学ぶ場である」と。もしそうだとすれば、大学は場所と施設を学生に与え、あとはお前達がかってに勉強せよ」と言っているようにも受け取れます。この事実は何を物語るのでしょうか。自分の好きな研究だけに埋没し、他に責任を負っている仕事、即ち学生の能力を伸ばす仕事に対する責任を自覚していないように見受けるのです。しかも日本では大学に属している研究者のうち、価値のある研究をしている者は、全体の6割にも満たないという調査結果もあるのです。彼らの給料は研究と学生の能力を開花させる仕事の両方に対して支払われているはずです。価値ある研究もせず、学生の能力を開花させる指導もしない者が教師になれるばかりではなく、大学に居座れる制度に問題は無いのでしょうか。

 

・永久ライセンスを取得できる学部に所属する場合は別として、行かないよりは行った方が多少はましという程度の大学に、多額のお金を出して子供をやらなければならない親の身になって考えるとやりきれなくなりますし、このような大学の状況下に、「真に有能な学生は果たして育つのかという疑問を持つのは、筆者ばかりではないと思われます。

 

・ヨーロッパやアメリカの大学では意欲的な学生に対しては、学生が申し訳ないと思うほど時間を割いて指導してくれるそうです。そんなにしてくれなくてもいいと思う程、とことん学生の質問に答えてくれる、と聞きます。教師達は、学生の指導を疎かにすると首を切られることもあり得る。この点で日本は極めて甘い体質になっていると思います。日本の殆どの大学において、知的に進歩する目標を見失って、まるで牧場に飼われている家畜のように毎日を過ごしている学生が溢れている現状を、社会は見過ごしておいて良いのでしょうか。

日本では子供が大学に入ってしまえば、教育に関心など持つ親は殆どいないのが現状ですが、西欧の諸国では、教育の是非が、その国の屋台骨を揺るがしかねない、と言う国民の認識があり、子供のみならず、孫、ひ孫の代にわたって教育はどうあるべきかに大多数の国民が関心を寄せ、真剣に検討を重ねていると聞きます。我、関せずという態度は許されない。日本のように学生を知的堕落に導いている根本原因はどこにあるのか、単に大学に責任押し付けるのではなく、社会全体がもっと真剣に考え、改善してゆく必要があると思います。

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